主日礼拝説教

2017年12月31日:
エフェソの信徒への手紙4章10~23節

2017年12月31日:エフェソの信徒への手紙4章10~23節  

「次に何が起こるのか」


 この2017年も、ついに今日で終わりです。一年間、本当にお疲れさまでした。皆様にとって、この年はどんな年だったでしょうか?皆様は、どんな風に今年を振り返るでしょうか?一年365日の終わりの12月31日が、このようにして日曜日で、この年の最後にこうやって私たちが教会に集って礼拝をする。日曜日の礼拝をもって一年間を締めくくることができることは、特別なことだと思います。この礼拝で言わば、私たちは今年に区切りをつける。今年の最後に読点を付ける。丸を打つわけです。他の何かがあるのではなくて、今年の私たちの結論は、この礼拝です。礼拝とは、ワーシップのこと、それは尊ぶとか、尊敬する、崇拝する、賛美するという言葉です。そしてそれはもっと噛み砕いて言うと、ありがとうございましたと、神様に言うこと、感謝するということです。
 人を尊ぶ時、私たちは普通に、ありがとうございました。お世話になりましたと言って頭を下げます。年賀状を書くのも、お世話になりありがとうございました。また来年もよろしくお願いしますと相手に伝えるためです。ですから、年末年始にお歳暮を贈り、年賀状を書いたり、場合によってはその人を訪ねたりして感謝を表しますが、そのことと、礼拝をすることとは、本質的に似ている、ほとんど同じことです。それぞれに色々あった一年間だっと思いますけれども、最後に神様に感謝して、今年もありがとうございました。また来年もよろしくお願いしますと、感謝を尊敬を表すために、私たちは今朝ここに集まったのだと思います。
 そして、礼拝をするということは、それ自体が目的です。礼拝をしたから御利益があるとか、しなかったら罰が当たるとか、何かの厄除けや、願かけの意味で礼拝をして、そのお賽銭の効果が日常の個人生活に良いかたちで出てくるのを期待する、というものではありません。ここは、しあわせを買うところではありません。あちらの教会はサービスがいいな、でもあちらの教会はサービスが悪いなとか、教会は、そういう基準で測られるお店のようなものではありません。個人的な利益を高めるという目的があって、それを満たすために、そのための手段として、ここに来るのではありません。その意味では、個人の生活のために、教会があるのではありません。ここに来て、礼拝を捧げることそれ自体が、私たちの幸せだから、主イエス・キリストの体である教会を、自分もその一部として建て上げるということ自体が、私たちの人生の大事な目的だから。教会にこそ、自分の人生があり、自分の人生の一番大事な軸があり喜びがあるから。だから教会に来て、礼拝という、神様と公にお会いできる場に立って、自分の利益のためにではなくて、神様のために感謝をささげる。今日この一年の終わりの日が、ちょうど日曜日で、そこでちょうど、神様のために生きている自分を再認識できて、何よりも神様のおかげさまで今年一年を歩んでくることができた、その事実を確認するこの礼拝ができて、私たちは、ここでの礼拝によって2017年を締めることができますので、このことは本当に良かった。これは幸せなことだと思います。
 
 今年はどんな年だったのか、どんな風に今年を振り返るのか、今朝の御言葉は、その一年の振り返り方を、この年末に際して、既に私たちに教えてくれている言葉だと思いました。どうやってこの一年を振り返ればいいのか?まず、一年の振り返り方としての、悪い例と言うべきものが、御言葉の中に語られていますので、そこから見てみたいと思いますが、それは、今朝の17節から19節の御言葉です。「4:17 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、4:18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」
 パウロははっきり、強い勧めの言葉を使いながら、17節にありますように、これは悪い例だ、避けるべきやり方だと警告してます。それは、誰のやり方かというと、異邦人のやり方だと。異邦人とは、外国人のことですが、ユダヤ人以外の外国人はこの聖書の神様のことを知りませんので、実質的には、異邦人とは、神様のことを知らない人たちのこと、イエス・キリストを礼拝しない人たちのことです。けれども、この17節にあるのは、「もはや、異邦人と同じように」という言葉です。つまり、神様のことを知らない人たちのやり方考え方が批判されているのですけれども、この手紙を読んでいるあなた自身も、自分もかつては、イエス・キリストのことを知らなかった、そういう神を知らない異邦人と同じだった。だから、あなたがた自身が、もうその過去の自分の姿に逆戻りしないように、と語られているのです。
 では、自分の過去にあった、異邦人のような悪いやり方とは何かと言うと、先ほどの説教の冒頭でも少しお話しした内容と通じますが、そこには一言で言えば、神なき、自分中心主義があります。18節も、「彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」と語っている通り、過去の自分のやり方は、神の命から離れた、自分の心の中にある無知とかたくなさに捕らわれたものでした。
 そういう、神の命から離れた今年の振り返り方には、当然神様は不在です。神様への感謝もありません。そうなると、神様不在の神への感謝なしの今年の振り返り方だとどうなるのか?そうなると、自分のかつての心が、確かにそうだったのですが、すべてのベースが、運の良し悪しになるのです。「今年運が良かったな。いやでもあそこはついてなかったな。あの人に会えたのはラッキーだったな。でも彼女は相変わらずできなかったな。あ~、友達のあいつは可愛い彼女ができたのに。ちくしょー今年もついてねー。」そしてその次に、神に感謝することを知らない人は、自分に感謝し、自分を褒めるのです。「でもそのついてない今年の中で、自分はよくやったよな。あの春先辺りに思い切って新しいパソコン買ったのは、あの自分の判断は良かったな。あれで変わったよな。さすが自分だな。あの夏のビックイベントも、俺だkらこそうまくできた訳で、他の奴だったら無理だったな。自分ありがとう。そしてお疲れ様。お前は頑張ったから、来年きっといいことあるさ。」こんな感じで、自分に語りかけちゃった李なんかして、自分で何でも見えて、何でも自分で分かっているつもりになって得意になっている。そして、そんな自分の愚かな姿に、自分でも全く気付くことのできない、さらなる愚かさ、無知、無感覚。「ああこんな風では、もうこの人には何を言っても無駄だな」と人に思わせてしまうような、恐ろしい心のかたくなさ。こういう状態が、異邦人的な、かつての自分の状態であり、悪い考え方です。もはやそう歩んではならない、歩むという言葉は生きるという言葉ですが、一旦神を知りながらも、こういう思考に、かつてのこういう自分に、また逆戻りしてしまうということが、実際にエフェソ教会で起こって、パウロはその状況を耳にしていたのかもしれません。エフェソ教会の人々も、今の私たちの状況と同じように、周りを神様を知らない異邦人たちに囲まれて、そういう社会で生きていましたので、神なき、神への感謝なき年末というものが、今の私たちの社会のように、そこにも色濃くあったのだと思います。
 
 ではそれに対して、良い方向性とは何か?それが今朝の20節以降で指差されています。「4:20 しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。4:21 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。4:22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、4:23 心の底から新たにされて、4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」
 先週この場所で洗礼式がありました。それは、ここで言われているように、古い自分を脱ぎ捨て、心の底から新しくされるという経験です。洗礼は、生まれる時、死ぬ時、と並んで、人生の中に一回しか来ない、決定的な衣替えの儀式です。もう古い自分は、完全に滅び去って、もうその衣はなくなったので、戻ってこないのです。そして、神にかたどって造られたという、創世記の人間の創造の言葉が繰り返されているほど、それほど鮮やかに、根本から、新しい人類になって、もともと神様にかたどって造られたが罪によって狂わされてしまった、人生の方向性、まっすぐ神様に向かって進んでいくための羅針盤を与えらえ、神様の声をいつでも聴くことのできる神様との線境界線である聖書を与えられて、そして何よりも、神様に接ぎ木されて、キリストと一つの体に結びつくための、教会に、洗礼を通して私たちは自分の席を与えられましたので、良い今年の振り返り方とは、もうすでにお話ししてきたことですが、礼拝に集い、何よりも今年の一年は神様のおかげさまだったという事実に眼を開かれて、まっすぐに神様を見つめられるようになって、まっすぐに神様に感謝を捧げられるようになる、ということなのです。
 後半部分を先に読んできましたけれども、前半に戻ります。そしてそこに今朝の説教の結論を求めていきたいと思いますけれども、今朝の13節から16節を、改めて朗読させていただきたいと思います。「4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」
 とても豊かな御言葉ですが、成長という言葉が、お読みしたひと塊の御言葉の始めと終わりに語られています。既に、今朝の御言葉より前の4章の前半やもっと前の2章のところにも、一つになること、一致することの大切さということが繰り返して語られてきました。そして今朝の御言葉には、説教題にもありますように、教会で私たちが愛によって一致したら、そのあとには何が起こるのか、ということが語られています。それが、成長です。
 そして成長とは何か?教会の成長ということを語りながら、今朝の御言葉は、数が増える、規模が大きくなるといった、目に見えて大きくなるという意味での成長を語ってはいません。ここで言われている成長とは、一言で言えば、教会が、キリストの体らしくなるということです。13節後半には、「キリストの満ち溢れる豊かさになる」ということが語れ、15節にも、同じことが語られています。「あらゆる面で、かしらであるキリストに向かって、成長していきます。」一つとなった教会は成長していき、キリストを目指し、キリストに至る。
 キリストの体づくり、そのための肉体改造、そのためのトレーニングというものが、この教会という場所で、体のそれぞれの部位である私たちを通して行われていくのです。その意味で教会は、常に動いている、生きた体です。
 そして特に面白い言葉だと思うのは、16節です。そこに、「体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかりと組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられていく。」と語られていることです。体を成長させるときの言葉として、筋肉とか、骨とか、皮膚とは書かれていない。特に骨の成長が度外視されているのはなぜだろう、と思います。やはり、体つきが大きくなるということは、ここでは考えられていないのだと思います。それよりも大事なのは、節々が補い合うこと、しっかりと組み合わされること、と言われています。わざわざ聖書が節と言っている。これは驚きですし、ここに真理があると思います。節は、それ自体では存在できませんが、節がなければ、途端に体はバラバラになる。そして節は一つではなくて、体の中に無数にある。そしてその節々が一つの目標にむかって、一つの動作に向かって見事に連携して、一致して動く時にこそ、体は動く、体は生きた体になる。先程、異邦人的な生き方として示されていた、傲慢さ、エゴイズムが節々に宿っていたら、体はバラバラになりますし、節々がかたくななで、頑として動かなかったならば、節が節として機能しませんし、体全体も、かたくなになり、健康的な柔軟性、伸びやかさを失ってしまいます。つまり、つながりの良い、血の巡りの良い、柔軟で健康な体のような教会を、ここに集められた私たちが、作り上げていく。そのための、良い節々に、私たちがなっていく。これが、これから先、来年の私たちそれぞれの課題になっていくのではないかと思います。そして、そいう言う課題を与えられながら、みんなでキリストの体らしさということを考えながら、そこに向かって成長していくことは、本当に楽しい、面白い、自分が新しく作り変えられていくような体験になると思います。なぜなら、私たちはそのキリストの体づくりの中でこそ、キリストを最も近くで体験できるからです。聖書というものは学ぶものと言うよりも、それを生きるものですし、キリストも、教えられ、知るというよりも、出会い、触れ合い、体験し、肩を組んで歩んで行く、そういう方だからです。人がこんなに、一つになることができて、繋がり合うことができて、愛し愛され合うことができる、そういう一致の感動、手を取り合うことの喜び、愛し合い、赦し合い、認め合うことの嬉しさを経験できる場所は、教会の他にありません。神の住まい、キリストの体である教会。来年も、この場所に結び付けられていることの醍醐味を深く味わって、御一緒に益々しっかりと組み合わされて、成長させられていきたいと思います。


2017年12月24日:
マタイによる福音書2章1~12節

2017年12月24日:マタイによる福音書2章1~12節  

「INVITATION 何がすごいのクリスマス」


 何がすごいのクリスマス?という問いかけが今朝のメッセージのタイトルですけれども、クリスマスの何がすごいのか、それをまず最初にはっきりさせたいと思います。クリスマスのすごさとは、それを一言で言うならば、一番大切なものを、一番関係のない人に与えるというすごさです。
 では、一番大切なものとは何か?一番大切なモノ、と言いましたけれども、一番大切なものは、カタカナで書けるような、いわゆるモノではありません。モノより思い出とか、思い出はプライスレスで、それはお金では買えないとか、あのカード会社のCMがそんなことを言ってしまったら、そもそもが成り立たないじゃないかとも思いましたけれども、しかし確かに、一番大切なものは、お金で買うことのできるような、そんなに簡単に手に入るようなものではありません。
 一番大切なものとは、それは、たとえば私にとっては、人に嬉しいと言ってもらえるようなことのすべてです。嬉しいと言ってくれる人がいること、人が喜んでくれた思い出、そこに喜びがあるような人間関係、人が心から嬉しいと言ってくれたり、そういう顔でほほ笑んでくれたりすると、それが私にとっても、一番嬉しいことなので、そうやって喜んでくれる人の存在や、そういう顔をしてくれる人の思い出や言葉は、私にとっては、お金では買えない大事なものです。
 
 クリスマスには、クリスマスプレゼントを交換し合いますけれども、クリスマスに神様は、お金では買うことのできないプレゼントを、私たちに贈ってくださいました。そしてそのプレゼントは、神様にとっての、一番大切なものでした。それは、神様のひとり子、愛する子ども、御子イエス・キリストです。神と等しい、神のひとり子が、数多くの人間の子どもたちが生まれる中で、一人、ひっそりと、しかし確実に、この世界の中にお生まれになりました。すごいニュースです。グッドニュースです。このグッドニュースのことを、聖書は福音と呼びます。
 そんな神の御子の貴重な誕生、いま、今日、世界中で盛り上がっているクリスマスの、その最初の始まり、最初のホンマもんのクリスマスを、できることなら見てみたい、後々の時代まで語り継がれ、世界中の人々によって祝われるクリスマスのその最初の瞬間に、できることなら立ち会って、例えばそれを映像に納めたい。それを目撃してみんなに言い広めたい。特別な、プライスレスな経験とはこのことですので、できることならその最初のクリスマスについて知りたい、それを覗いてみたいという興味がわくのは当然のことです。けれども、そんな場面に立ち会うことができるのは、人類の中でも特別に価値のある、最重要人物だけであるはずです。ではその、超重要な場面、マリアが主イエス・キリストを生んだ、プライスレスな場面、その歴史的瞬間に招かれたのは誰だったのでしょうか?
 答えは、誰だったのか分かりません。何人なのか、どんな名前のどこの誰なのか、恐ろしいことに全く分かりません。分かるのはただ、最初のクリスマスの目撃者たち三人と、主イエス・キリストとの間にある、そしてこの人たちとユダヤ人で主イエスの両親マリアとヨセフとの間にある、関係の無さ、だけです。ここで主イエスの誕生に招かれた博士たちは、神様とも、主イエスとも、とことんまで関係のない、無関係な、全くどこの誰だか分からない人たちでした。
 今朝の2章1節にこう書いてあります。「イエスは、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」なんとあいまいな表現でしょうか?記念すべき最初のクリスマスに立ち会ったのが彼らだったのだから、さてどんな人がそこに来たのだろうと思って興味をもって聖書を読んでいる私たちに、もっとしっかり答えて欲しいと思うのですけれども、聖書は全くひどい説明をします。どこから来たのかということを説明する時に、東の方から、という答えでは、小さい子どもがただ、あっちの方から、と指さすようなもので、あまりにも説明になっていません。色々な聖書学の調べによると、彼らは恐らく、古くから文明が栄えている、イラクのバグダッドの辺りから来たのではないかと、学者たちの間では考えられていますが、それぐらい東だとしたら、それはまさに当時の世界地図の端っこでありあり、彼らはまさに極東の、世界の果てから来たということになります。バグダッドからエルサレムまでは、海を跨いで直線距離で約千キロあります。当時の乗り物といえばロバしかありません。川には橋もろくに架かっていません。山や悪路は歩いて来るしかないような時代です。そういう道を1000キロを下って、違う国の中に入って行く。これは当時では考えられないような、ちょっと現実的でないような旅です。何なんだろう?東とはどこなんだろう?それが率直な疑問です。でも聖書ははっきり言いません。
 さらに、「東の方から」という言葉の前の、「占星術の学者たち」という言葉も、これは聖書の言葉からの本当の翻訳ではありません。この言葉は、マジックやマジシャンという言葉の語源になっている、マゴスという言葉で、意味は、古代ペルシャのゾロアスター教の司祭という意味や、インドやイランに広まっていたミトラ神、太陽神を祭る宗教の司祭という、イスラエルの神様を正しい神とする聖書から見れば、明らかにマイナスイメージの意味を持つ言葉です。つまり彼らは、占星術とか、天文学者という、宗教的には中立でフラットな人たちだったわけでは全くなくて、聖書の神様とは完全に違う宗教に属している、しかも実際にはその異なる宗教の司祭クラスの有力な人々だった。それが、主イエスの出生に立ち会った人々でした。
 
 彼らはユダヤに入り、ヘロデ王の前に行って、こう言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」ヘロデ王はこれを聞いて、腰を抜かして驚いたと思います。この時、ユダヤ人の王とは、まぎれもなく、この人、ヘロデ王のことだったからです。しかしそのヘロデ王に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねる。空気が読めないというか、何も分かっていないというか、本当に彼らは、別の世界から、もっと言えば別の宇宙から来た人たちのように、まったくその存在が浮いています。
 その別世界からの来訪者たちは、ユダヤ人の側から見れば、彼らは当然外国人であり、しかも異教徒でした。ユダヤ人が最も嫌うのは、何より異教徒です。ユダヤには厳密な食物規定がありますから、外国人が食べているのものをうっかり食べると、その身が穢れてしまいます。ですので、ユダヤ人は通常、外国人と飲食を共にすることにならないように、つまり友達になることはないようにするために、外国人との会話も避けて、外部とのかかわりを断っていました。しかもユダヤ人には、モーセの十戒があります。その第一戎には、「あなたには、わたしをおいて、ほかに神があってはならない」と書かれていて、それが厳しく守られていました。ですから、外国人で、しかも異教徒は、ユダヤ人にとっては絶対にNGです。まったく関係がないどころか、この来訪者たちは、外国の宗教を信じる、呪われるべき、話すこともできないような彼らの敵であり、危険なバイ菌のような、OUTな存在でした。
 けれども、そんな彼らが、プライスレスな、一番大切な場面に、ほんまもんのクリスマスの、その真ん中に招かれて、そこに立ち会うのです。私も自分の子どもたちの出産に三度立ち会いました。すべて帝王切開で、手術室までは入れませんでしたけれども、けれどもその手術室の出口の前に立って、子どもたちの出産の第一報を聞いたのは私です。出産の立ち合いという場所ほど、神聖で特別な、唯一無二の場所は他になかなかないと思います。それがあるとしたら、それは、人生の最後に死ぬ時でしょうけれども、死を看取ることと出産に立ち会うことを比べると、人生に稀にある大きな喜びの特別な瞬間とは、まず出産の時でしょう。そういう特別な出産のその喜びの現場には、普通私のような父親や親族だからこそ入れるわけであって、部外者は立ち入ることができません。けれども、このクリスマスの、主イエスの出生に立ち会ったのは、その親族でも、長い付き合いの親しい友人でもありませんでした。逆にそこにいたのは、マリアとヨセフとは全く面識のない、身なりも違い、肌の色も違い、話している言葉も違う、ものすごい外国人だったのです。マリアとヨセフにとって、彼らのような外国人を見るのは、もしかしたらこれが初めてだったかもしれません。長男が生まれた、その初めての出産の、特別な場に、言葉も通じない、全然関係のない外国人がやってきた。しかも、これも恐らく見たこともないような、黄金、乳香、もつ薬を差し出して、彼らは生まれたばかりの赤ん坊に向かってひれ伏して拝む。黄金はもちろん、乳香や没薬なんて、使い方も分からない、それが何かも分かりかねるような代物だったと思います。この時、はてなマークが、ただただ、マリアとヨセフの頭の中に広がっていったと思います。しかし、理解できないぐらい関係がなく、理解できないくらいつながりのない相手と自分が、しかし、主イエス・キリストによって、ひとつにつながる。
 クリスマスが起こった時、そこに一番先に、その一番近くに優先して招かれたのは、実は、クリスマスから、一番遠くにいる人、一番関係のない人でした。東の方の地の果てから来た、ほかの宗教を奉ずる、主イエスから見れば全くの外国人であった3人。けれども全く関係がないながらも、なぜか不思議と、クリスマスに立ち会っている名前も知れない3人。
この3人を見ていると、この三人の一人に、自分が含まれているような気がします。この3人を見ながら、1995年の阪神淡路大震災の時に、避難所となったこの板宿教会に私だけでなくて、たくさんの同世代の友達がいたこと。特にそこでとても仲良くなった、私と同じように東京からボランティアスタッフとして来ていた二人の友達の顔を、不思議と思い出しました。東の方から来たあとの二人の友達に支えられて、長い期間、この板宿教会でボランティアをしました。逆に一人では無理だった、一人では来れなかったし、一人では、長い間ここでボランティアはできなかったと思います。
 東の方の、世界地図の隅っこの異宗教の国から来た3人。私は、この東にある異宗教の国とは、世界の極東地域に位置する、現代におけるこの日本のことではないかと、聖書が語る東の国から来た3人とは、実は私たち日本人のことを聖書は指さして語っているのかもしれないと、都合よく解釈しています。
 そしてそんな風にこの3人のことを見ていると、本当に希望が湧いてきます。「キリスト教は外国人の、欧米の宗教だから、私たち日本人には関係がないのだ」なんて、誰が言ったのでしょうか?とんでもない話です。むしろ私たちこそ、クリスマスのターゲットのど真ん中です。
 メリー・クリス・マス!とは、嬉しい・キリストの・日という意味です。今日、この12月24日に、私は改めて皆様に、語気を強めて言いたい。Very Merry Christmas to You。とっても嬉しい、キリストの日を、あなたに。クリスマスの嬉しさは、まさにあなたのためにこそある。そのあなたが嬉しくなるために、そこをめがけて、クリスマスは起こった。あなたは、あなたこそが、クリスマスに関係がある。あなたこそが、クリスマスの真ん中に、招かれている。あなたをめがけて、キリストは来たのです。
 主イエスキリストの誕生の枕元に空いている、一番いい席は、あなたのための席である。これが今朝の聖書が語るメッセージです。このあなたのためのクリスマスを、今年是非、受け取ってください。


2017年12月17日:
エフェソの信徒への手紙4章1~6節

 2017年12月17日:エフェソの信徒への手紙4章1~6節  

「あなたが招かれている場所」


 今朝もエフェソの信徒への手紙を通して、教会についての、私たちがこれまで知らなかったような、深い言葉が語られています。
 キリストの体は一つ、という表題がこの御言葉には付けられています。そして、この一つという言葉が、今朝の御言葉のキーワードです。なんと、この1節から6節までの短い御言葉の中に、ひとつ、One、という言葉が7回も繰り返されています。
 スマップが歌った、世界に一つだけの花という歌があり、ナンバーワンよりもオンリーワンということが分かり易く歌われて、大ヒットしましたけれども、ここで語られていることはあの歌の、さらに上を行っています。オンリーワンはもちろんですけれども、その先にある、一致団結、we are the one.オンリーワンが失われない一体感。それも、中途半端な一体感ではなくて、他のどこにも無いような堅い結びつき。それが教会にある。その一体感を、教会は作っていく。その方向性と、そのための方法とを、パウロは今朝、これも歌の歌詞を歌うかのようにして、たたみかけるようにして、ビシッと語ってくれています。
  
 エフェソの信徒への手紙の、これまでの1章から3章までは、パウロが教会について、壮大なスケールで、神学的に語ってきました。教会は、キリストの体であり、イエス・キリストが満ちておられる場所であり、そこでは、キリストの愛の広さ長さ高さ深さを味わい知ることができる。神様の素晴らしさは、もちろんイエス・キリストによって、そして同時に、イエス・キリストの体である教会によって、世々限りなく表れる。
 そして4章以降では、その大事で偉大な教会を、私たちがどうやって作るのかという、具体的なこと、実践的なことが語られていきます。そしてここからが、エフェソ教会への、パウロの具体的なレッスンの始まりになっています。パウロが3年間そこで働き、もう二度とそこに行くことができないエフェソ教会は、ギリシャの異教世界の中で、圧倒的な少数派という状況の中で、どうやって踏ん張ってイエス・キリストの教会を建て上げていくことができるのか、ということが示される。そしてその最初の4章始めに、エフェソ教会が取り組むべき、最も大切な実践が語られます。

 ここでは順番に四つのことが語られていきます。その四つとは、謙虚、柔和、寛容、愛によって忍び合うこと、の四つです。そしてこの四つが、教会が教会らしくなるための勝負所です。大きな建物や、たくさんの教会員、充実したスタッフ、そんなことは語られていません。けれども、似たり寄ったりのことのように思われる、あまり大げさではない、控え目で地道な、謙虚、柔和、寛容、愛によって忍び合うこと、実はこれこそが、教会の勝負所なのです。この四つは、教会のという建物を徐々に建て上げていくための、一本一本の柱のような働きをしています。既に2章の終わりに、教会は、使徒や預言者という土台の上に建てられた神の住まいであり、そのかなめ石は、キリスト・イエス御自身だ、という言葉がありましたけれども、そういう基礎の上に、いよいよこの4章から、柱が据えられ、棟上げが行われていくのです。
 そこで、この四つの柱を具体的に見ていきたいと思いますけれども、まず、最初の謙虚とはどういうことでしょうか?新共同訳聖書では、2節の始めに、「一切高ぶることなく」と訳されています。謙虚さというものが、社会生活にとって大切なことは、誰でも知っていることです。高慢な人は自然に嫌われて、人が寄り付かなくなります。けれどもこれは、社会生活の中で謙虚であれと言っているのではなく、教会の中の実践としての謙虚です。この意味は何でしょうか?それは、教会の中では皆が、奴隷の身分であれ、という訴えです。
実際にパウロ自身、3章のはじめでも、今朝の4章の1節でも、自分のことを、「主に結ばれて囚人となっている」と語っています。この言葉はもともと、鎖につながれている人、という意味の言葉です。マタイによる福音書に、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙虚な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」という主イエスの言葉がありますけれども、今朝の「鎖につながれている人」、囚人という言葉は、主イエスの言われたくびきという言葉につながる言葉だと思います。くびきも鎖も、どちらも、人を縛って自由を制限するためのものです。必ず私たちは、いつも何かに縛られ引っ張られます。それが人の言葉であったり、自分自身のこだわりであったり価値観であったりするのですけれども、必ず何か、自分自身を縛る中の物差しをもって、それを判断基準しなければ、私たちは生きていけないのですけれども、主イエスは、私のもとに来て、私のくびきを肩にかけ、私に縛られるならば、私は柔和で謙虚だから、あなたがたは楽になって、安らぎを得られますよと言われました。そしてパウロもその同じ意味で、主に結ばれて、主の囚人となっていると、ちょっと言葉の矛盾ですけれども、囚人という悪い言葉を、良い意味で使って、主の囚人であることは、私の誇り、私の救いだ、という意味で語っています。どうせ縛られるなら、キリストに縛られていたいとパウロは願い、主イエスも、そうやって囚人として私に縛られ従う者に、赦しと安らぎを与えると言われました。パウロの言う謙虚であれとは、単純に腰を低くし、低姿勢で遠慮深くなれということではなくて、あなたも主イエスの囚人になれ、そして、主イエスの僕として相応しくへりくだって、主なる神に従いなさいと勧めています。
 そして次の来るのが柔和です。これは英語で言えばマイルドという言葉です。穏やかさ、やわらかさが、柔和を意味しますけれども、これも、世間一般的な意味で、優しい心の人になりなさいということではなく、神様の囚人として、神様に倣う中で、そこからくる柔和さを身に付けなさい、という意味です。
そして寛容、とういことですけれども、これは、ちょっと訳し方が誤っているかもしれません。実際にはこれは、長い苦痛を耐えるということばで、忍耐深さと訳した方が良いような言葉です。苦しいことがあっても辛抱する我慢強さです。その苦しみには、自分が自分の責任の中で直面しなければならない苦しみに加えて、これは教会の中での話ですから、他人が、教会で隣り合う人が、苦しみの原因になるということが、罪人同士の人間関係ですから必ず出てきます。けれどもそこで、どのように処するか、辛抱すべきだ。腹いせや仕返しをすべきではない。愚痴を漏らすことの向かうべきではない。それを具体的に耐えるべきだと、つまり、教会で、あなたと隣合う人たちのことを、被害を被るようなことがあっても我慢し、やり返したりすることなく、その人を赦すべきだとパウロは語るのです。教会の中で、寛容、忍耐の心を持つということは具体的にはそういうことです。
 
 そして最後の四つ目の実践が、愛を持って互いに忍耐し、という言葉です。これも訳があいまいですが、文字通りに訳せば、愛の中で互いに持ち上げ合う、という言葉です。どうやって持ち上げ合うのでしょうか?もちろん具体的に体を動かして支え合うということがありますが、何よりも、教会の中で互いを持ち上げ合うということは、祈り合うことによって実現されます。実際に、祈り合うということに通じるギリシャ語が、ここに使われています。愛の中で、お互いに持ち上げ合う、祈りによって支え合う。ぜひ、御自分のことだけでなく、教会の兄弟姉妹のためにも、祈ってください。
 そしてこれをしていく時に、教会が、キリストという土台の上に立ち上がっていきます。主イエスも、何度も愛について語られましたし、この手紙を書いたパウロも、コリントの信徒への手紙Ⅰの13章で、有名な愛についての言葉を書き連ねていますが、聖書の愛は、ふんわりした綿菓子のような甘くて、口に入れたら消えてしまうようなあいまいなものではなくて、とても具体的で、現実的なものです。聖書が語っている愛は、高ぶりや傲慢さと無縁のところにあり、マイルドな柔らかい心を人に与え、辛抱強く見守り赦すように私たちを導き、人のために祈ってその人を神様の祈りの力で持ち上げ引き上げる。具体的にはそういう生き方に人に教え、そういう生き方へと人を促し動かすものなのです。愛に生きるということは、こういう風に生きるということなのです。
 そして聖書には、その愛こそが、永遠に残ると、コリントの信徒への手紙で言われています。「信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」ということですから、聖書曰く、永遠に輝き、地球上でもっとも堅い鉱物だとされているダイヤモンドよりも、愛の方が永遠に残る、固い、確かなものなのです。そういう、ダイヤモンドよりも固い愛で、永遠に崩れない教会をここに建てる方法が、私たちが今日も、来年も、この板宿教会で、この謙虚、柔和、寛容、愛による忍耐を、実践することなのです。
 その結果、私たちはどうなるのか?そこで、そのやり方でこそ、一つになれるのです。3節です。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」小さな薪が一束にまとめられて、針金で丸く束ねられて売られているように、平和のきずなで結ばれて、という言葉は、平和によって一束に束ねられる、という言葉です。謙虚も、柔和も、寛容も、愛による忍耐も、皆、平和に通じるものです。平和とは、聖書では、単純に戦争がないということではなくて、良い状態、確かな状態、安全な状態を示します。そういう、心から安心できる場所に教会がなる。ここに来れば、皆に祈ってもらえる。受け入れてもらえる。柔らかな優しさが満ちている。そうなれば素晴らしいと思います。パウロは、そこを目指せと、平和のきずなと霊の一致を保つように、「努めなさい」、努力しなさいと言っています。
 つまりこのことは、自然にはできないのです。今朝の御言葉が、なぜ何度も、一つ一つと連呼するのか?そこには一つになっていない、分裂している現状があるからです。極めて意識的に、意図的に、主イエス・キリストが見せてくださった愛のかたち、検挙、柔和、寛容、忍耐に、自分自身を方向付けて、この御言葉を何度も心の中に打ち込みながら、絶えず軌道修正してこの言葉に張り付き、自分を沿わせるように、「努めなければ」、これは自然にはできないことです。
 しかし、確かにこれは難しいことだけれども、しかしあなたがたは成長できる。キリストはあなたがたを成長させてくださると、パウロは今朝の次の御言葉で約束してくれています。そしてパウロは、本気で、無理だと諦めるのでは決してなくて、この教会が、平和のきずなで結ばれた教会になるように、そうなることができるからと勧めているのです。今朝の始めに戻って、一節の御言葉です。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きに相応しく歩み」なさい。
 私たちが神様によって招かれ、集められ、今そこに座っているのは、一つであること、一致団結していること、平和に結び付けられ、一つに束ねられていること、そういう、一致という名のもとに語られるすべてのものの中で、最高の一致が、神様によって実現する、「世界に一つだけの場所」です。一人の神様に、一つの信仰によって、他のところにはない一つの洗礼によって結び付けられ、バラバラの多神教の神ではなくて、世界と歴史と宇宙のすべてを統括しておられる一人の唯一の神様によって守られている、そして永遠の命の希望という、死を突き抜けた、すべての希望の中で随一の、一番の希望を、分け隔てなく与えられている私たち。苗字が同じとか、出身地や出身校が同じだとか、そういうこととはけた違いの一致が、既に与えられている場所、それがここ、教会です。
 主イエス・キリストが、インマヌエル、神は我々と共におられる、という名前を伴ってクリスマスに地上に生まれてくださる必要があったように、罪によって、何かにつけて、ケンカ、仲たがい、分断、分裂、そして孤独の中にすぐに引きこもってしまう私たちには、一致、結び付き、共にいてくださり、繋がってくださり、繋げてくださる方の存在が不可欠です。
 今私たちは、この教会を愛によってさらに建て上げるということを通して、一致の喜び、つながりの喜び、平和のきずなで結ばれる、他では得難い安心を、ここで具体的に経験する。そのために、皆さんお一人お一人と共に、この場所に招かれています。このことに、心から感謝したいと思います。
 

2017年12月10日:
エフェソの信徒への手紙3章14~21節

2017年12月10日:エフェソの信徒への手紙3章14~21節  

「壮大な神の愛」


 私たちは、このエフェソの信徒への手紙を通して、使徒パウロの教会を大きく包み込むような壮大な祈りの言葉を私たちは受け取っています。エフェソの信徒への手紙は、今朝の3章の終わりの言葉までがまず一区切りで、ここまでで、冒頭からの長く詳しい挨拶の言葉が締めくくられています。パウロがエフェソの教会にこの手紙を送ることによって何よりも伝えようとしていたことは、ギリシャ神話真っ只中の、キリスト教とは別の、異なった宗教と、そこから出来上がった社会に住むギリシャ人たち、エフェソ教会の人々に、あなたがたは切り離されていない、神の選びから決して漏れてはいない。あなたがたと私は、かつては一緒に居て、今は離れているけれども、ひとりの主イエス・キリストによって、今も一つにつながっている、同じひとつの教会に属している、神の家族なのだ。そして神様は、あなたたちを決して見放したり遠ざけたりすることなく、力を与え、支え、あなたがたのところにも共にいてくださる。だから大丈夫だ。力強く歩みなさいと、パウロはそのメッセージを伝えんがために、一生懸命、読み手に命を送り込むかのようにして書いています。そういう意味では、この手紙は、単純にエフェソ教会だけに向けられた手紙ではなく、板宿教会のこの私たちに向けても語られているメッセージとして、受け取ることができる。今日の私たちへのパウロからの言葉として、受け取って良い、そう受け取るべき手紙です。
 パウロは、その手紙の長い冒頭の挨拶を締めくくるに当たって、今朝の御言葉の始めで、「ひざまずいて祈ります」と語りました。パウロは、先週の13節の言葉で、「自分が苦難に遭っている。けれどもそれは、あなたがたにとって栄光なのだ。あなたがにとって良いことなのだ。」と語っています。同じ戦いを、一緒の教会として、一つの教会としてパウロは共に戦っている。共闘しているからです。パウロの戦いとは、それは教会の中にある人種の壁、国籍の壁、習慣や文化の壁など、そのすべての壁を打ち破って、キリストの救いを世界中に広げ届けるための戦いでした。そのためにパウロは今、イタリア・ローマで牢獄生活、軟禁生活を送っているのですが、その中にありながらも、神様にひざまずいて祈ると語っています。当時は祈る時には立って祈るのが習慣だったようです。ですので、その習慣の中で、ひざまずいて祈るということは、その祈りが、熱意のこもった、特別に熱い祈りであったことを示しています。
 パウロはまず、15節の祈りを口にしました。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」この15節をカルヴァンは、「彼の故に天上にあっても地上にあっても、すべてのものが親族関係で呼ばれる。」と訳しています。大きな教会観です。すべての人は、神様という一人の父親を前にして、皆が親戚関係で結ばれる。本当にこの神様は、私たちが頼りにし、時にその存在を懐かしみ、他には代えの利かない帰る場所になってくれる、親しみをもって父と、おやじと、呼ぶことのできる、あらゆる父の、その大元であられる、真の父、父の中の父です。あらゆる父親の中で、最も父と呼ぶにふさわしい私たち皆の本当の父、それが神様、父なる神なのです。私たちは、パウロも含めて、その父の子どもたちです。
 その子どもたちである私たちに、父なる神はどんな良いことをしてくださるのかが、次の16節、17節に書いてあります。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根差し、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
 キリストが心の内に住んでくださる。それによって、私たちには何も欠けることがなくなります。キリストは実際には遠くにいて、携帯電話に着信があるように、遠くから信号を送ってくださったり、電話をかけてくださるのではない。私は、朝の祈りの時に、もちろんリジョイスも良いのですが、『ジーザス・コーリング』という、日々の聖書日課の本を使って祈り、聖書の言葉を引いています。その本には、主イエスの言葉とメッセージが、本当に自分に向けて、自分の耳元で聞こえてくるような、近く親しい言葉に書き換えられて語られていて、本当に心にジンと来る、心に近く響く言葉が多いのですけれども、その本の言葉のように、いやそれ以上に、主イエスが心の内に住んでくださることによって、主イエスの声がいつも内側から聞こえてくる。単純に主イエスの十字架のペンダントを首から下げるとか、その程度の形ではなく、「心の内にキリストを住まわせ」ということは、この心の内でキリストが毎日生きていて、そこで生活してくださるということです。私たちは、心の内に住んでくださる主イエスと、同居生活をする。一緒に生きる。いつもその呼吸と息吹をすぐ耳元に感じながら歩むことができる。主イエスを知っている私たちにとって、神様とは、哲学や概念なのではなく、親であり、毎日を一緒に生活し、共に生きる相手なのです。
 思わず言葉の説明が多くなってしまいますが、この17節の後半の言葉の中でも、これもまた是非知っていただきたい言葉があるのですが、それは、「愛に根差し」「愛にしっかりと立つ」という言葉です。「根ざす」という言葉は、植物を苗床にしっかりと植える時に使う園芸の言葉だそうです。そして「しっかりと立つ」という言葉は、建築の専門用語で、強い土台を据えるという言葉なのだそうです。ということは、キリストが心の内に住んでくださることによって、私たちが愛という畑にしっかりと植え付けられ、愛という土台が、私たちそれぞれの人間としての土台として強く据えられる、ということです。
 そうなったら、私たちはどうなるのか?こうなるのだ、ということが、さらに18節19節に語られています。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」
 有名な言葉です。けれども素直に読んでみて、ちょっと驚く言葉でもあると思います。愛に、広さや、長さや、高さ、なんてものがあるのだろうかと思ってしまいます。本当に、注解書によって千差万別の解釈がなされているこの言葉ですけども、一言で言ってこれは、それ以上大きなものがない、他と比べようがないほど大きいという意味で、まるで、「海のように壮大な愛の豊かさと広がり」、これを語っている言葉なのだと思います。キリストの愛を知る前は、それに根差す前は、私たちの愛は所詮洗面器レベルでした。愛が豊かで愛の大きな人でも、人間の愛はせいぜいがお風呂ぐらいのレベルなのではないかと思います。私の家のお風呂は140リットルで入れていますけれども、愛が大きい人の場合でも、自分の体重、体の大きさの二、三倍のお風呂レベル。汲めども尽きないということにはなかなかならない。汲んでいけば尽きる。愛されることで、愛をもらうことで、常に足し湯をしていかないと、すぐ底が見える、それぐらいの愛が私たちの愛なのだと思います。
 けれどもそのレベルの愛から、140リットルどころではない、無限の湯量の中に私たちは入ることができる。底の見えない海の深さのごとき、怖いぐらい底の見えない愛を、私たちは知り、体験できるようになる。
 ここで言われているキリストの愛の広さとは、すぐそこにある妙法寺川など比すべくもない、対岸の見えない、海のような、中国の長江のごとき幅と包容力と豊かな流れを、キリストの愛は備えているということを言っているのではないかと思います。
 次のキリストの愛の長さとは、いうなればその忍耐力、途切れない継続性ではないかと思います。永遠に長く途切れない愛。
 そして愛の高さとは何でしょうか?アウグスティヌスは、それは希望を意味すると言いましたが、そう考えると、クリスマスの日に、主イエスが誕生を示すために夜空にひときわ明るく輝いたと言われる、希望の星、その星は、愛の高さを、その崇高な輝きを連想させます。
そして愛は深い。19節には、「人の知識をはるかに超えるこの愛」という言葉がありますが、そもそも私たちは、愛を、そのような、想像できないような、人知を超えた巨大で偉大で、捕らえようのないようなものだとは考えないのだと思います。大体小さくしかそれを見積もらない。
 愛というものは、こういう時に発動するものなのだと、タカをくくる。例えば下世話に、良いプレゼントをあげれば、指輪をあげれば、それで形を整えれば、愛は成立する。ある意味、お金の力があれば愛はある程度買えると思ったり、あるいは、自分の悪いところや足りないところを見て、こんな自分は愛に値しない、こんな自分なんか絶対に愛されないと自分で愛の限界を見定める。こんな悪い人間は決して赦されないと絶望し、あなたのような悪い人間のことは決して赦さないと相手を絶望させる。このすべてにおいて、愛の小さな見積もりがあります。そして、その延長上でキリストの愛を考えるならば、こんな自分の罪が赦されるなんて、とても信じられない。あんなことをしたあの人のことまでもキリストが赦すだなんて、虫が良すぎる。神の愛がそんなに大きいはずはないし、そんな大きすぎる愛は逆に秩序を乱すだろう、などと考えて、愛を過小評価し、自分のわかる範囲内のことに規制する、押しとどめるのが私たちの心であり頭です。
 けれども、神の愛と言うものは、もともと、ありえないことを起こす力なのです。それは、私たちの頭が、そんなことはあってはならないと、それを否定したくなる、そういう、私たちから見えれば、とても筋が合わないような、筋違いのものなのです。筋違いですけれども、筋が違うからこそ、愛なのです。筋書き通りの、サプライズなしの、予定調和の中に愛はありません。愛は驚きです。何のショックも、何の驚きも意外性も引き起こさないような愛はありません。言わば愛は、あらゆる罪の思考と死そのものを打ち壊す、強力な力であり、それは巨大なハンマーなのです。
 クリスマスには、主イエス・キリストそのものが、天国から振り下ろされる巨大なハンマーのようになって、地上に到来されました。クリスマスも、本当に驚きです。それは筋書き通りのことでは全くなく、筋違いの、神の愛による、大きな異変です。ヨハネの手紙には、このような有名な御言葉があります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 こっちが神様を愛するから、お返しに愛してくれるわけではなく、神様を愛さない私たちを、先に神様が愛してくださいます。しかも神様は、御子主イエス・キリストを、クリスマスに生まれさせたのですが、その目的は、御子主イエスを、私たちの罪を償ういけにえとして、十字架につけてわざわざ殺すためでした。わざわざ殺すための、十字架に架けるための御子の誕生。なんで神様がそんなことをするのか、なんでそんなひどいこと、痛いことを、御自分の方が痛みを負ってまでして、御自分に従わず、御自分を愛さない、冷たい心の人間のために、神の方からするのか?意味が分からないし、そんな必要性は全くない。けれどもこれが、神のこの行為こそが愛なのだ。じゃあなんでそんなことができるのか?神の愛は、私たちの思いを超えて、広く長く高く深いからできるとしか、言いようがありません。愛という言葉のもとの意味は、主イエス・キリストという方そのものの中に、一番はっきり表れているのです。
 
 すごいと思いますね。ちょっと世間の常識ではなかなか聞けない、聞いたことのないような話に入ってきていると思います。けれどもこの信じられないような愛が、私を満たす。私の心を創り、あなたを満たす。どうやってですか?この教会を通してです。
 18節の最初に、「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に」と書いてあり、そして今朝の御言葉の最後の21節にも、「教会により、キリスト・イエスによって」と書いてあって、ちょっと一節戻りますけれども、「教会により、キリスト・イエスによって」20節の、わたしたちの内にはたらく御力によって、神様が、私たちが求めたり思ったりすることのすべてを、はるかに超えてかなえることができる。とも言われています。つまり、もちろん主イエス・キリストと、それに加えてキリストの教会によって、私たちの願いや思いはすべて、想像を超えるかたちで、愛のサプライズを共に、「ああもうびっくりした。これがエフェソに書いてあった神の愛なのか。うわー参った。」とうならざるを得ないようなかたちで、その愛は、ここに現れるのです。私たちはここで、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ長さ高さ深さがどれほどであるかを理解するのです。
 先週も言いましたが、私は本当に教会が好きです。その理由は、その愛がここで見れるからです。そのキリストの愛のすばらしさ、そのすさまじさとその驚きを、ここで見ることができるからです。一人の人が洗礼を受ける。このキリストの愛を知り、それを心に受け取って、キリストと一緒に住みながら、本当に主イエスとの同居生活を送りながら、踏ん張って、希望をもって生きている人が、ここには、一人や二人というレベルではなく、たくさんいらっしゃるはないですね。もう、ものすごくこの場所に表れているわけです。キリストの愛の海のような広さが。
 パウロがそうであるように、本当に祈るのはこのことです。もちろん教会には色々な課題、解決しなければいけないこと、たくさんありますし、問題がないということでは決してないのですけれども、すべてが私たちの願い通りに行くということではないけれども、でも、願い以上に神様がここでは働いてくださり、願いを超えてかなえてくださいます。そういう奇跡を私たちは今までここで見てきたし、これからも確実に見るでしょう。何より願うのは、キリストがこの場所に、ここに集う一人一人の心に住んでくださり、海のような大きな愛の源泉として、その愛をこの場所から沸かして、生み出し溢れさせてくださること。そして、それを通して教会が、本当に私たちのかしらである主イエス・キリストの姿を表現し、その愛を、ますます表すことができるようになることです。今年のクリスマスにも、この場所に足を運んでくださる、私たちも含めたすべての人が、ここで、神の愛に驚くような経験に導かれることができるように、御一緒に祈っていきたいと思います。


2017年12月3日:エフェソの信徒への手紙2章17節~3章13節

2017年12月3日:エフェソの信徒への手紙2章17節~3章13節

「教会の設計図」


 唐突ですけれども、私は教会が好きです。何が一番好きですか?趣味は何ですか?何をしている時が一番楽しいですか?と時々聞かれて、そういう場合には、仕事以外のことをもって答えなければいけないのかなあと思いながら、すごく真剣に、何が好きなのか、何が一番楽しいのか考えるのですけれども、いつもなかなか思い浮かばずに、ほとんど苦し紛れに、映画とか、読書とか、ですかね?と答えたりするのですけれども、もっとよく考えたら、私は教会が好きです。ですからこれからは淀みなく、言い方は変かもしれないですけれども、教会が趣味です。教会のことを考えたり、教会に関わることをやっている時が、一番楽しいです、と答えることにしようと思います。
 そして、私のこの教会好きは、今に始まったことではなくて、昔からでした。私は神学校に入学してから間もなくの頃、今思えば、ちょっとつまらないことで、しかし真剣に悩んだことがありました。その時の悩みは、自分に賜物がないという悩みでした。どこを探しても特別な才能のようなものが、本当に自分には見あたらないので、何を売りにして、何を伸ばしてこれからやっていけばいいのか分からなくなり、自分の平凡さに焦ったのですけれども、その時に、何とか考えに考えて絞り出した自分の賜物は、自分がまだ22歳で、どの神学生よりも若かったので、ひとつは若い、ということと、そしてもう一つの賜物がこの、教会が好きだという、自分の中にある思いでした。今考えれば、教会が好きだということは、献身者として、神学生としては当たり前のことなのですが、当時は真剣に、その二つことが自分のスペシャリティーだと信じて、これに寄りすがっていこうと思いました。そして、それから20年経って若さが失われた今、今の私には、教会が好きだという賜物しかありませんが、不思議とこの思いは弱められることなくさらに強められて、この思い込みのような賜物の理解が功を奏したのか、教会論という、教会について教える授業を、神学校で担当させていただいていますし、今も教会と共に幸せに過ごさせていただいています。
 私にとって、教会ほど、そこに居られることが嬉しく、そこで起こっていることの一つ一つが愛おしく、ここに来られる方々の一人一人がまぶしく尊く見える場所は、他にありません。
 ですので、昨日の土曜日、私はただ見ているだけで、イルミネーションを下元長老が教会の屋根に上って全部つけてくださったのですけれども、そしてまたその前の土曜日には、皆で教会のクリスマスの飾り付けを色々としたのですけれども、そういうことが、そういう時間が、私にとっては、とても嬉しく楽しい時間です。家族には怒られてしまうかもしれませんが、自分の住まいよりも、教会を美しく心地よく保つということの方が、私にとっては大切なことです。
 ですから、そんな私にとって、この聖書の中で、これほど教会について深く論じている書物は他にないと言われるこのエフェソの信徒への手紙を、皆様と共に読んで、そこから学びつつ説教することができることは、大きな喜びです。
そして、このエフェソの信徒への手紙を読みながら思うことは、これを書いたパウロも、本当に教会が好きだったのだろうなあ。本当に教会を尊び、教会を愛し、全身全霊で教会を大事にした人だったのだなあ、ということです。なぜパウロは、こんなにも口酸っぱく、あらん限りの言葉を尽くして、ここで教会について続けて語っているのか?それはもしかしたら、自分がこんなにも愛してやまない大好きな教会を、エフェソ教会の人々も、二千年後にこの手紙を日本で読んでいる板宿教会の人々にも、同じように大好きになって欲しい。同じような大切さで、教会のことを考え思って欲しい、そういう思いがパウロにあったからなのかもしれないと思いますし、あながちこの捉え方は、的外れではありません。パウロが結局やっていることは、この手紙の受け取り手の教会が、パウロが語り伝える教会についての言葉を知り、理解し受け取って、その教会が良い教会になるように、この手紙をしたためつつ祈るということだったからです。自分がこうやって命を懸けてきた、そして今もそのために戦っている教会、その価値と意義と素晴らしさを、パウロは手紙の受け取り手の教会と、共感し、共有したいのです。
 
 そして今朝の御言葉でも、パウロは教会について、多くの言葉を用いて熱く、深く語っています。「教会の設計図」という説教題を掲げましたけれども、ここで語られていることは、もっと踏み込んで言えば、教会の解剖図です。教会は、どこがどうなって、成り立ち、造り上げられているのか?
 そこでカメラは、教会の土台を映していきます。今朝の20節にはこうあります。20節「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり」かなめ石という言葉が出てきます。それは、隅の親石とも言われます。英語で言えば、コーナーストーンという言葉です。当時に建てられていた石の建築物では、一番端っこの土台には、一番大きくて重く頑丈な石を置く必要があり、実際にそこには一番大きく安定した石が使われていたそうです。コーナーストーンとは、例えば石を重ねて作るピラミッドでしたら、一番下の、一番角っこにある石のことですから、その意思がピラミッドの場所を決め、その位置がずれないように全体を固定し、その意志の強さが、そのあとに積み重なっていく石の傾斜角度も決定するのです。教会の、そういうかなめ石がイエス・キリストである。その石の大きさによって、その石の強さによって、その石が導く角度によって、その上に立つ教会の規模と形が決まってくる。そのかなめ石の上に土台が建てられますが、その土台とは、使徒や預言者であると言われています。使徒や預言者とは、教会の中に立てられる職務従事者たちのことです。私たちの教会で言えば、牧師、長老、執事のことです。彼らがかなめ石の上に立つ土台となる。けれどもかなめ石となっているキリストは、その影響力と力を、教会という建物の全体に対して常に及ぼしていきます。21節と22節には、with Christ, in Christ, by his Spiritという、キリスト共に、キリストの中で、キリストの聖霊によってという大きな言葉が三度繰り返されて、教会という建物全体がキリスト共に成長し、キリストの中で聖なる神殿になり、聖霊の働きによって神の住まいになる、と言われますので、ずっと手取り足取り、キリストが教会を、下から上から中から、支えて成長させ続けてくださるというヴィジョンが描かれています。そこでは、牧師も長老も執事も、そのキリストに用いられて、その教会の土台としての役割を果たすのです。私たちの教会は、教会規程という教会の政治的規程を独自に持っていて、牧師・長老・執事はその教会規程に従って教会での働きをなしていくのですけれども、その教会規程の最も大切な前文は、終始一貫して「キリストは」「キリストが」という風に、キリストを主語とした文章で語られていて、牧師・長老・執事は、そのキリストがされたいことを、キリストの代理として、代わりに行うこととされています。よって教会はどこまでも、キリストによって建てられ、キリストが導かれ、キリストが支え、キリストが成長させてくださる、神の住まいなのです。
 こういうものが土台で、19節の言葉、「従って、あなたがたがはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」とあるように、教会はキリストの土台の上にある、家族的な集まりなのではなくて、完璧な神の家族なのですから、そこにはやれ外国人だ、やれ寄留者、一時滞在者、正式なメンバーではない人とそうでない人だ、やれ聖なる民だ、あるいはそうでない人だなど、人種、身分、世代、性別が、争いや分断を生む原因にはなりえない。むしろ、絶対に分かたれることのない最も強い絆、家族の絆がここにあるのです。
 土台から始まって、その上に立つ教会の中身にまで、既に話が進んでしまいましたけれども、パウロは今朝の御言葉の3章1節からのところで、キリストというかなめ石の上にある教会は、そのかなめ石がキリストですから、必然的にその上に建てられる教会も、かなめ石の大きさ、スケールに見合うようになりますので、そのスケールのとても大きな教会を描いて見せます。
 そして、ここに書かれていることは、私たちにとっても本当に新しい、新しい気付きに目が開かれるようなスケールの大きな教会観だと思います。パウロにとって教会とは、エフェソ教会、やれ板宿教会、やれ西神教会といったような、個別で別個のものではありません。世界の教会は一つに結びついている。しかもその世界中の教会は、歴史をも超えて結び付いている。なぜなら、そのかなめ石であるイエス・キリストが、世界中の教会のかなめ石であると共に、全時代の教会を結び付ける教会のかしらでもあられるからです。
 そういう大きな教会に、パウロは、この手紙の宛先であるエフェソ教会の信徒たち一人一人も、彼らはユダヤ人であるパウロから見れば異邦人であるけれども、しっかりと神の家族として入れられていますから大丈夫ですということを伝えたかった。そしてパウロは、教会の中にある、汲めども尽きない恵みの鉱脈を指さすかのようにして、自分のことをここで語るのです。
 榊原先生は、この3章の前半の解説の中で、ここはエフェソの信徒への手紙には珍しく、著者の体臭がするところだ、と語っておられて面白かったのですけれども、そういう意味では、パウロはここで、例えばラグビーの試合の、ハーフタイムのロッカールームで、汗にまみて汚れたラガーシャツを脱ぎ捨てながら語るかのように話しているのかもしれないと思います。
 パウロと私たちは、時代と場所を超えて同じキリストの教会に属する、一つの、キリストの体として歩む、チームメイトなのです。パウロは、3章6節にあるように、一緒に戦って、試合に勝とうと言うのです。6節です。「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを私たちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」
 そしてパウロは、自分が、かつてはとても弱い人間で、誇れるところのないつまらない人間だったのだけれども、神様の力によって強くされて、教会というキリストの体に入れてもらえたことを語り、こんな自分でもメンバーになれたのだから、異邦人のあなたたちも絶対に大丈夫であるし、神の力を同じように受けることができるし、大胆に神様に近づいて歩むことができる、と励まします。
 同じチームメイトのパウロから語られる言葉を受け取ってください。7節から12節です。「3:7 神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。3:8 この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、3:9 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。3:10 こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、3:11 これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。3:12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」
 そして、だからこその13節です。「3:13 だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」お聞きいただきたいのですが、コロサイの信徒への手紙1章24節にも、この御言葉との関連で、同じパウロの言葉があります。「1:24 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」
パウロは、最前線で戦っているのです。そしてこのハーフタイムの対話の後にも、さらに、後半開始のホイッスルと共に飛び出していって、あらゆる抵抗に打ち勝って、福音のボールを敵の陣地に届けるために、敵と体当たりしながら突き進んでいく。具体的には、この時パウロは、ローマの町で軟禁されながらも、そこで出会う人々にローマ人でも、イタリア人でも、ユダヤ人から始まったキリスト教の、ユダヤ人である主イエス・キリストの救いを、しかししっかりと受け取り、あなたも完全な神の家族になることができる、ここにも完全なキリスト教会が建てられることができ、救いに与る神の民によるが教会が、神様の力によって異邦人の中にも興されるのだという福音を届けるために、このあとも戦っていく。その戦いは苦しいけれども、それは教会のためであり、キリストの体のためなのだから、私にとってはその苦しさは、喜びでしかない。だからこういう私の苦難を見て、てこずる私を見て、どうか落胆などしないで欲しい。むしろこれで教会がもっとよくなるのだから、喜んで欲しい。むしろこの、私の生みの苦しみを、応援して欲しい。祈っているから、あなたがたも祈って欲しい。こういうパウロの訴えが、ここから聞こえてくるのです。
 福音は、今日もこうやって、全世界の各地に建てられている教会を通して、それを大きな一つの体として用いながら、さらに前進し拡がっていきます。そしてこの大きな、恵み豊かな、イエス・キリストのという命を共有する教会というキリストの体では、そこにある苦難や戦いも、キリストの体を建て上げ、体のほかの部分を生かすための良いものとして、用いられる。そうやって私たちは大きく支え合いながら、キリストによって神の家族として、互いに結び付けられながら、それぞれがこの教会の生ける柱の一本一本として歩む。そういう育まれ方が一生続いていく。その中で教会を愛し、私が教会の一部となり、教会が私の一部になる。そんな教会のことが、ますます愛おしくなり、好きになっていく。人数が多くなるとかそいう言うことではなく、こういった意味での愛がこの場所に生まれ、一個の教会がどうこうということを超えて、諸教会の間に、そして諸教会を通して愛が増すということこそが、教会の成長なのだと思います。


 2017年11月26日:
エフェソの信徒への手紙2章11節~22節

 2017年11月26日:エフェソの信徒への手紙2章11~22節  ......
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「今や十字架が私に」
 
 何度も語っていることですが、エフェソの信徒への手紙の言葉は、どんどん深くなっていきます。先週の御言葉によって、私たちは、死んでいたのに、そこから命の中へと移された。それは、旧約聖書の創世記で、世界が新しく造られたのと同じように、私たちがリ・クリエイトされる。新しく創造されるということであると、学びました。
 先週の御言葉の最後の10節には、「私たちは、神が前もって準備してくださった良い業のために、キリスト・イエスによって造られた。」Created in Christ Jesus to do good worksという言葉があります。すごい言葉です。私たちは、良いことをするために、キリストの中で、新しく創造された。
 キリストの中で創造される。まるで、母の胎内の中で命を得たというかのような表現です。もうそういう意味では、キリストによって、私たちは第二の誕生を経験するのです。そうして、死んでいたところから命に移されて、別の人間にならせられたので、そこから先は、新しく創造されたものとしてふさわしい、新しい創造にかなうような、別の生き方をするようになる。キリストの中でクリエイトされたのは、to do good works.善き業をおこなうためなのです。その良い業をするために、私たちは生きるようにされた。
 
 そこで、今朝はさらにもう一歩踏み込んで、キリストの中で創造された者が行う良い業とは一体何か、ということが語られます。そして、その良い業とは、一言で言うと、平和なのです。
 キリストによってリ・クリエイトされた人間が行う、もっともクリエイティブなこととは何か?私たちは、実際色々なことができるし、様々なことをなしうる。皆が、職業も年齢も性別も私たちはバラバラなのですけれども、でもそういうリ・クリエイトされた私たちが、誰でも、たとえ何歳になっても、行うことのできるもっともクリエイティブな仕事がある。それはこれだと、聖書にはっきり書いてある。それは、平和をもたらすことです。これ以上の良い業はないし、これ以上のクリエイティブなことはないし、このために、私たちはキリストの中で造られたのです。
 
 では、その私たちの至高の目的、平和をもたらすということは、具体的にどういうことなのか?それは、キリストがやってくださったことです。
それが、今朝の14節から16節に書いてあります。「2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
 
本当に主イエスは、十字架にかかることによって、御自分の生身の体を通して、その命を通して、敵意のあるところに和解の橋を架けてくださったのです。キリストの中で創造されて、平和を実現するということはどういうことか?それはこのキリストの十字架という、私と人、私と神様との間にかかる橋の上に、自分の足を置き、その橋を渡ることです。
 私たちの間には、御言葉がここで指摘をしている通りに、敵意という現実、二つに分断されているという現実、隔ての壁があるという現実、廃棄されるべき規則と戒律づくめの律法、言い換えれば昔からのしがらみやしきたり、それらのものが作り出している敵意という現実があります。
 
 最近もアメリカが北朝鮮を、テロ支援国家として認定したというニュースが出ていました。もちろん北朝鮮の中にもいろいろな人がいて、善意をもって歩んでいる人もいるはずですが、しかしこれは、相手をテロリストの国だと決めつけるもので、ものすごくあからさまな、相手をおとしめる敵意の表現です。日本はそれを否定せず、指示していますが、日本はかつてこれとは比べ物にならない敵意を、朝鮮半島や中国、フィリピンなどの国々に対して、ほとんど無差別に向けて、戦争という手段に打って出ました。日本が引き起こしたその分断は、朝鮮半島の分断という結果も生みました。
 日本というこの国の中を見てみても、本当にたくさんの亀裂があります。色々な分野において競争を活発にさせて、お互いに切磋琢磨して高め合うことは良いことだと思いますけれども、その競争が人間の優劣、人生の勝ち負けというかたちで、人の魂を傷つけ追い込み、人間の命というものの優劣にまで達してしまうような、とことんの競争になってしまうと、競争相手は皆、人生の敵、自分の命を脅かす存在だ、となり、そうなると、競争相手は皆敵意の対象になってしまいます。
 
 私たちが、以前の死んでいた状態、キリストを知るまえの状態にあった時は、そういう意味での殺伐とした弱肉強食も、さして気にも留めなかった。だったら競争に勝ってやればいいだけのことじゃないかと、恐ろしく傲慢に、自分中心に構えていて、そこで勝てるのが、強い人間、たくましい人間、賢く、優れた人間だと信じて疑わなかった。
 今の時代、道を歩いていていきなり話しかけてくる人や、いきなり玄関の前に立っているような人も、敵意と警戒の対象です。知らない人物からは、何をされるか分からないという恐怖が、いつもつきまとってしまっている。平和ではなくて、平和とは違う、敵対、争い、競争、生き残りということが、心のベースになってしまっている。それが私たちの日常だと思います。
 
 けれどもキリストは、敵意と敵対の延長線上にある、武力でバランスを取って、戦争のない状態を実現させようとするような、そういう力と競争の力学の中での平和を実現されたのではなく、十字架に架かられました。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬もむけなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」と言われ、「敵を愛しなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあるだろうか」と言われました。
 そして主イエスはその通りに、自分に敵対し、自分を傷付ける者たちの欲しいままに御自分を委ねられ、彼らによって十字架に釘で打ち付けられ、民衆全体からも罵声を浴びせかけられるままになられました。そして主イエスは、豪打されて、腫れてぼこぼこになり、釘のような棘の冠かぶっていることによって、皮膚が避けて頭から滴り落ちる血に目でふさがれながらも、赦しの目で、そこから私たちのことを見つめてくださるのです。
 もう15年ほども前ですけれども、私が参加したある青年キャンプの礼拝の中で、私は、自分の、人には言えないようなたくさんの罪を紙に書いて封筒に入れ、それを書いた参加者皆が、一人ずつ、その封筒を大きな木の十字架に、釘で打ち付けるということをしたことがありますが、それを自分でしながら、本当に涙が止まりませんでした。皆の罪を打ち付けられて、封筒だらけになった十字架を見た時に、キリストがしてくださったことが、具体的によく分かりました。
 主イエス・キリストは十字架で、私たちの罪、敵意、怒りをすべて御自分の体に引き受けてくださった。キリストは愛をもって、罪深い私を、その罪深い私のまま、丸ごと引き受けて、受け入れ、赦してくださった。そんな私たちを裁き罰することなく、御自分が裁かれ、痛みを負い、傷を受け、死んでくださった。
 その十字架が、私のために立てられた。そして、よくその十字架に架かっておられる主イエスの顔を覗き込んでみると、その優しい瞳は、自分のことを見つめておられるのですけれども、よく見ると、その眼は、自分が敵対している人のことも見ている。十字架には、その人の封筒も釘づけにされている。そうやって、その人と、その人と私との間にある十字架を見る時に、その人と私との間にある敵意も罪もすべて十字架で主イエスが引き受けてくださっているので、もう敵意を交わす必要がなくなるのです。
 ちょっと余談ですが、実際そのキャンプには、当時まだ神学生だった、南アフリカ留学中の大西先生も参加していて、別に敵対しているわけではなかったのですけれども、向こうが年上ですし、当時はまだあまり親しくはなく、そんな中で牧師であるわたしが涙を流して封筒を十字架に打ち付けている状況が、正直ちょっと恥ずかしかったのですけれども、でも大西先生も同じようにしてそれをやっていて、そのことを通して、一緒にあの十字架を覚える礼拝を経験したということをもって、とても仲良くなれたということがありました。
 グムホ教会に行ったメンバーもそれを経験したと思いますし、もちろんそれは、普段の子の場所でも経験できることですが、主イエス・キリストの十字架をお互いの間に立てて、共に心を砕いて、敵意や競争心や嫉妬や妬みや虚栄心や、その他あらゆる罪を、キリストの十字架に担っていただくようにして、共に祈る時、本当に、今朝の御言葉にあるように、キリストは、私たちの平和として、二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、双方を御自分において、ひとりの新しい人に造り上げて、十字架を通して、両者を一つの体として、神と和解させてくださるのです。
 
 この和解は、人と人、人と神との間に平和と建て上げます。そしてその平和は、もっと具体的には、キリストの体である教会を作り上げます。教会は、新しく創造された者が集められる、新しい国です。
 規則と戒律づくめの律法という言葉が今朝の御言葉にありましたが、それは具体的には、今朝の御言葉の前半部分の11節からのところに語られている、異邦人とイスラエルの民との区別を生んでいました。旧約聖書の時代からずっと、彼らは別の民、別の国民として、意識的に分け隔てられてきました。ユダヤ人の生活と宗教の中心は、エルサレムにあった神殿だったのですが、そこには、明確に、異邦人、すなわち外国人がそれ以上立ち入れないという礼拝の場所があり、その部分だけ取っても、もう割礼を受けていない外国人たちは、完全に、全く神様との関係を持つことからは排除されなければなりませんでした。11節が語っている、「割礼のない者」という言葉は、実際には、包皮という言葉です。つまり、異邦人は包皮だと、それは切り取って捨てられるべき無駄なものだとされていたのです。けれども、今朝の13節が語っていますように、「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって、近い者となったのです。」
 
 エフェソの信徒への手紙の今朝のこの御言葉は、十字架を、ただ神様と私たち個人との間の、縦の関係における平和の懸け橋とだけ理解するのではなく、もう一つ、十字架を,私たちの人と人という人間関係にも、平和と和解を導く懸け橋として語ります。そして、十字架を屋根の上にいただいている教会とは、キリストによって結び付けられた、人種、年代、性別、先輩後輩、過去のにあったいざこざや色々なこと、そういうことを、本当にそれを忘れるのではなくて、それに目をつぶるのでもなくて、そういうものを全部、主イエス・キリストの体ごと十字架に付け、その十字架によって解消した、その十字架から赦しと愛をもらった人たちの集まり。教会は、そのキリストの愛の中で、新しい人間として、生まれ変わらせられた、一人一人が創る、いわば新しい国なのです。第三の人種、既存の民族や国家に囚われない、それを超えるような、十字架によって建てられた、いわば新しい人種が、私たちなのです。
 
 そんな私たちができる、もっともクリエイティブなこと、それは、平和の実現です。そしてそれは、主イエス・キリストの十字架を用いた平和作りです。具体的に、いつも自らの傍らに、十字架をを置いて歩みたい。親との間に、夫婦の間に、子ども達との間に、教会役員の間に、私たち一人一人の間に、あなたと私の間に、今週私たちが出会うすべてのひととの間に、主イエス・キリストの十字架を立てて歩みましょう。それが新しくされた者の歩みです。